何の前触れもなく突如、虚空に出現する「月人」たち。その姿は涅槃来迎図を思わせるが、その振る舞いは破壊神そのもの。不定期に現れる、この”使徒襲来”に立ち向かうのは28体の宝石たち…。
『虫と歌』『25時のバカンス』などで目利きのマンガ読みたちをうならせた市川春子が王道バトルもの(?)を描いてみたら、とんでもないことになってしまった!
作者自らが手掛けたホログラム装丁があまりにも美しい。写真ではちょっとわかりにくいか。ぜひ現物を手に取ってほしい。
(市川春子『宝石の国』講談社)

名のもとに整えられた語りは、やがて硬直し、沈黙に近づいていく。けれど、ときに逸れ、揺らぎ、そして“狂い”を孕んだひそやかな笑いが、秩序の綻びにそっと触れたとき、語りはふたたび脈を打ちはじめる。その脈動に導かれ、かき消されていた声は、置き去りにされていた想いとともに、ふたたび言葉として立ち上がってくる。
大河ドラマを遊び尽くそう。歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)、宮前鉄也と相部礼子が、めぇめぇと今週のみどころをお届けするこの連載。第二十回も、狂い咲く余白から、もうひと声、お届けいたします。
第二十回「寝惚けて候」
語りが「触れること」で再び息を吹き返した前回に続き、大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第二十回では、“狂い”が語りの回路をひそかに拓いていく兆しが描かれました。中心に据えられたのは「狂歌」。定型の枠を逸脱しつつ、その逸脱ゆえに真実の逆説に触れるこの語りの形式は、制度的な正気に対する〈やわらかな反逆〉であり、江戸という都市の想像力を深く耕す知のありようでもあります。
今回描かれたのは、蔦屋重三郎が出版制度の“隙”に入り込み、擬態という編集技法を通じて、狂歌という語りの熱源に触れていく過程です。そこに見えてきたのは、狂いのなかに潜む倫理のかたちと、それを語りへとつなぎ直すための、しなやかにして烈しい編集知の萌芽でした。
正名と狂言──語りの秩序とその揺らぎ
「正名(せいめい)」とは、儒教において名と実を一致させ、秩序を保つための語りの原理です。名が乱れれば世も乱れる――この思想は、江戸の出版制度や問屋制度、画風や書式といった情報文化の枠組みに深く根ざしていました。それに対し「狂言(きょうげん)」は、正統を逸脱する“ズレ”の語り。道家的な逆説や笑い、寓意を通じて、制度のほころびを照らす語り方です。芸能においては、能における〈正名〉の中心から外れた語りとしての狂言があり、文芸の世界では、和歌という正統の詩型に対するズレの語りとして狂歌がありました。
今回の『べらぼう』は、まさにこの「正名」と「狂言」の一対を背景にしています。西村屋=正名、蔦重=狂言。蔦重のズラしや狂歌の笑いは「正しさ」を破壊するものではなく、“制度の縫い目にしなやかに針を刺す”ための方法だったのです。
狂歌の系譜──制度の外へあふれる声
狂歌(きょうか)は、和歌の形式(五七五七七)を借りながら、そこに笑いや皮肉、風刺を差し込むことで、“正しさ”の構造そのものを裏返す表現です。その起源は中世に遡りますが、江戸後期に花開いたのは「天明狂歌」。その旗手こそが、大田南畝こと四方赤良(よものあから)でした。
狂歌とは、風刺をただ笑いにするものではありません。制度と形式を“真似ながらずらす”ことで、むしろ制度を立ち上がらせている「力学そのもの」を可視化する方法だったのです。まさに「模倣の中の逸脱」「ズラしの中の真実」。出版という制度的な現場で闘争している蔦重にとって、それはひとつの本懐に通じる語りのかたちでもありました。
南畝の逸脱に肖りつつ、ひとつ即興を添えるなら――
よきことは 狂うがままに 咲くもよし
きょうか(狂歌)ふきのとう 春の口火に
言葉が狂うとき、秩序もまた“ほころび”を見せる。そこにしか咲かない花があるのです。
擬態と戦略──「若菜」vs「若葉」、ズラしの編集
本話においてひときわ印象的だったのが、「雛形若菜初模様」と「雛形若葉初模様」のたった一文字の違いに仕掛けられた擬態でした。この〈ズレ〉は、制度を外すことなく、その“内側から逸脱”する典型的な編集戦略です。
ここで蔦重が用いたのは、出版制度における“擬態”の技法。制度のルールを逸脱せずに、制度をかすかに歪ませるような語りの挿入。これは現代の出版における「パスティーシュ戦略」や、「パブリックドメインを使った再編集商法」にも通じる発想です。たとえば、古典文学を現代語訳して“新訳〇〇”として売り出す手法、あるいは著作権切れの作品をグラフィック付きで装い直す方法などは、いずれも「制度に触れることなく揺らす」という蔦重的擬態の現代的応用といえます。
蔦重のズラしもまた、「清長の画風を模す」「タイトルを一字ズラす」「値段を半分にする」ことで、制度の縫い目に針を刺すように、“笑い”と“欺き”を仕掛けていきました。それはまるで、狂歌の言葉遊びが世界の縫い目に差し込む皮肉とまったく同じ構造なのです。
語りの拡張としての狂歌──声と関係のメディア論
蔦重が狂歌に惹かれた理由は、単なる流行の兆しではありません。狂歌が持つ“語りの形式”としての力に、彼は敏感に反応していました。
狂歌は声に出して詠まれることで、はじめて効力を持つ詩型です。それは、語りが“紙”や“意味”ではなく、“声”と“身体”を通じて媒介されていくことを示唆します。つまり狂歌は、「触れる語り」が“聞こえる語り”へと変換されていく、その端緒でもあったのです。ここにおいて語りは、“作者の内発”ではなく、“関係性の震え”から立ち上がるものであるという構造が、狂歌という形式によって再び確認されます。つまり、狂歌とは「笑いを誘う」だけでなく、「関係を立ち上げる」メディアでもあるのです。
べらぼうの倫理──狂うことが赦すもの
蔦重が狂歌に惹かれたもうひとつの理由。それは、おそらく「狂うことが赦される場」であったからです。制度に忠実であることだけが“正しさ”を保証した時代に、狂歌だけが、人を“ずらす”ことを赦し、狂うことに“意味”を与えていた。
『べらぼう』というタイトル自体、「馬鹿げていること」「非常識なこと」への肯定です。常軌を逸すること、非常識であること、そして“狂っている”ことにこそ、語りの未来がある。そうした本作の根本主題が、今回の狂歌という題材で、はっきりと輪郭を帯びてきました。
その輪郭に、そっと一筋の補助線を引くように――いまひとたび、こんな一首を即興で添えてみたくなります。
狂いてよし 世を映すこそ うつし絵の
あやしき色の ぬくもりにして
笑いは無責任ではありません。それは社会の制度を支える“無意識の罅”をすくいとる倫理的作業でもあるのです。
考えてみれば、吉原という場所も、どこか“逸脱の倫理”をまとっているような気がします。江戸の決まりごとのなかで、仮名や仮装、ちょっとした嘘がゆるされる、不思議で、でもちゃんと成り立っていた“よそ”でした。そこでは普段かたく結ばれていた「名」がゆるみ、人と人との距離も、少しだけ揺れていたのかもしれません。狂歌が言葉の枠組みをくすぐって笑いを生むように、吉原もまた、社会の正気にひそかに狂いをしのばせるような場だったのでしょう。『べらぼう』という作品は、語りや絵、そして身体の“ずれ”が関係をつなぎ直していく様子を、折々の題材を通じて丁寧に描いてきました。今回の第二十回では、その語りの構造が「狂歌」というかたちをとって現れた――そんな印象すら抱かせる、笑いと逸脱の回でした。
狂い咲く語りの余白──〈ズレ〉をつなぐ編集知
狂歌とは、ただの滑稽でもなければ、単なる形式遊びでもない。制度の内側に生じたひび割れから、ことばがこぼれ落ちてくる瞬間。その一首一首が、「語りの裂け目」であり、「編集の起点」でもあります。
蔦重が狂歌を“出版”しようとすることは、語りの〈ずれ〉を社会の〈声〉へと変換する試みです。それはまさに、編集者としての彼の倫理の核心。「狂い」を通じて他者とつながるという構造は、出版における“問いの設計”そのものであり、現代の私たちにとってもなお有効な編集です。
語りは、制度に抗うのではなく、その“縫い目”に触れることで、正気の仮面をそっとずらす。そのとき世界は、ほんのわずかに笑いながら、再び語りだすのです。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十七
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2025-10-02
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